AIR TRAINER I が誕生した1987年は、今から35年前。
思い返せばたくさんのマスターピースが生まれた年でもある。人々が複数のトレーニングやワークアウトを組み合わせることで理想的なフィットネスを導き出していた時代に、AIR TRAINER Iは必要なすべてを備えたなシューズだった。そしてその革命性を世の中に最初に伝えたのは、テニス界の有名な悪童だった。Text by Masayuki Ozawa
NIKE AIR TRAINER 1
DM0521-100 |
ベトナム戦争後、平和が訪れたアメリカに巻き起こったブームはジョギングだった。ヒッピーたちは髪を切り、ジーンズを脱いで短パンを穿き、ブーツからランニングシューズに履き替えた。そのムーブメントは日本はもちろん、世界中に伝播していく。人々は走ることを楽しんでいた。
‘80年代に入っても心身をシェイプアップするマインドは加速する中で、より負荷のかからないエアロビクスがトレンドとなる。ランニング
の単調な動きに対して、ダンス形式の有酸素運動であるエアロビクスは、男女ともに気軽で楽しいワークアウトとして浸透した。フィットネスジムも各地で設立され、スポーツは室内で音楽を聴きながら楽しむものと、裾野が広がっていく。走ったり、ウエイトリフティングをしたり、バスケットボールやテニスなど、複数のスポーツを組み合わせて理想の体を作るト
そこに目をつけたのがNIKEだった。建築家からフットウェアの世界に転身したデザイナーのティンカー・ハットフィールドは、クロストレーニングにおける荷物の多さに着目した。それぞれに対応したシューズ一式を持ち歩くことで、肩掛けする大きなボストンバッグが流行りのアイテムとなる現状に、ティンカーは一足ですべてを補えるシューズの開発に取り組んだのだった。 文明が進化し、あらゆる素材がシューズに応用できるようになった80年代後半。本革や合成皮革、ナイロンにプラスチックパーツなどを組み合わせ、新しいテクノロジーが凝縮されていく。ちなみに1987年は、ハイテク元年と言われている。
こうして誕生したのが、クロストレーニングに対応する「AIR TRAINER I」だった。同じイノベーションでもソールから空気を見せた同い年のAIR MAX1が大胆であるなら、エア トレーナー1はミリ単位で計算されたデザインが革命だった。 同時代(厳密には2年ほど前になるが)の「AIR JORDAN I」や「DUNK」がストリートで愛された理由のひとつに、スケーターが着目したことが挙げられるなら、その魅力はローテクとして受け入れられた不完全さともいえる。その点でいえば「AIR TRAINER I」には、クロストレーニングとしての役目を十分に果たす高度なテクノロジーが凝縮されていた。特筆すべきはソールの形状である。当時、バスケットボールシューズはヒール部分が8mm程度高くなっていただけの、基本的にフラットな構造だった。それに対してランニングシューズは12〜15mmとやや高め。
テニスやバスケットボールのような横の動きに対するブレへの耐性は、
白と黒、そしてグリーンで構成されたOGカラーは「クロロフィル」の愛称で呼ばれている。これはティンカーが通っていたジムの色がインスピレーション源だ。白と黒は機材の色、グリーンはその文字に使われていたという。
「AIR TRAINER I」は大きな成功を収めたが、ヒットの裏側を占めるのはテクノロジーではなく、テニスプレーヤーのジョン・マッケンローの功績だ。1984年にピークを迎え、ウィンブルドンと全米オープンを制した彼は、1986年に女優のテータム・オニールと婚約を発表し、一時的に離れていたテニスへの復帰に意欲を燃やしていた。プレー中は主審に、会見では記者にクレームや暴言が絶えないマッケンローのあだ名は「悪童(Superbrat)」。一筋縄ではいかない
それだけが唯一履き古されたシューズだったにも関わらず、NIKEからそれを着用しないよう
クロストレーニング用モデルとして誕生した「AIR TRAINER I」は、テニスシューズとして予期せぬデビューをしてしまった。しかし、紳士のスポーツであるテニス界のヒール役に持ち上げられたことで、図らずも革新性のアピールに成功したのだった。
「それは足首の捻挫で悩んでいた私が必要としたサポート性があり、コートでのジャンプも可能にするシューズだった。幸せな偶然がもたらしてくれた」とマッケンローは話していたように、彼の心を動かしたのは、まさしくトータルフィットネスに適応するために、緻密に計算されたデザインだったのである。
商品情報
NIKE AIR TRAINER 1
DM0521-100 |